今日は新しい包丁が届いてから初めての切です。

Uさんの新しい包丁を使わしてもらって、包丁の持ちやすさ切れ味とも驚くほどよかったので、私も会長にUさんと同じ包丁を頼み、その包丁が届いたのです。象の鼻は出ませんし、切巾もある程度自由に調整できるような気もします。以前の包丁も長年使っていますので愛着はありますが、手にピタッとあい、切れ味がいいこの包丁を使っていきます。
詳しい切れ味はこちらです。

そして、「切り」といえば「そば切り」です。その「そば切り」の語の初見はいつからかというと、
「そば切り」に関する最古の記録として、長野県木曽郡大桑村須原宿にある定勝寺の造営や修理に関する「番匠作事日記(ばんしょうさくじにっき)」の中に、「振舞ソハキリ 金永」という記述があり、これが一番古い「そば切り」だそうです。
その記述は郷土史家が発見し、「信濃史料」(昭和34年1959年)第十四巻(11ページ)に掲載されましたが、それが注目されるようになったのは平成4年(1993年)ごろだそうです。(本来、定勝寺の本堂、庫裡、山門は昭和27年に国の重要文化財に指定されている有名なお寺です。)ぜひ、一度「そば禁制の石碑」と同じく見学することをお勧めします。

 

「そばの歴史」の話となりましたので、私が最も興味ある2つを挙げます。

1.そば禁制の石碑
浄土宗一心山極楽寺称往院の子院で道光庵は、もともとは湯島に創建されましたが、明暦の大火で浅草・吉原の近くに移転しました。そして、道光庵の庵主はそば打ちの名手で「寺」か「そば屋」か、分からないくらい多くの人がそばを目当てに来るので、修行の妨げになるとして称往院住職に天明六年(1786年)三代目庵主の時、「そば禁制」(「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内」)の石碑が建てられてしまいました。(古地図で浅草寺を上にして仲見世の左に、称往院があります。)そば屋の屋号に「庵」が多いのはこの「道光庵」の繁盛にあやかろうとしたことが発端といわれています。
関東大震災後の昭和2年に東京都世田谷区烏山への移転作業中に、この石碑が発見されました。
本当に、そば禁制の石碑が建てられていたとはすごいことだと思います。

2.いつから「そば」が「うどん」より優勢となったのか。
「うどん」と「そば」の攻防が書かれた黄表紙「うどんそば化物大江山」は源頼光の鬼退治伝説をパロディー化したもので著者は「恋川春町(こいかわはるまち)(狂歌師:酒上不埒(さけのうえふらち)です。この書物が書かれたころから「そば」が「うどん」より優勢となり始まり、徐々に長期間にわたり穏やかに、寛政年(1789年~1801年)の後半頃からそばが、優勢となっていったとされています。

そばの話から外れますが、題名だけ聞いてもおもしろい黄表紙が沢山ありますので少し紹介します。
・恋川春町:「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶのふたみち 1776年)、 「無益委記」(むだいき 1781年)
・山東京伝(さんとうきょうでん):「娘敵討古郷錦」(むすめかたきうちこきょうのにしき 1780年)、
「江戸生艶気樺焼」(えどうまれうわきのかばやき 1785年)

参考文献
・「江戸の戯作絵本」第1巻 小池正胤ほか編 社会思想社・現代教養文庫
・蕎麦の辞典(新島繁著 講談社学術文庫)、・江戸っ子はなぜ蕎麦なのか(岩崎信也著 光文社新書)
・都史紀要39 レファレンスの杜―江戸東京歴史問答 第5章 江戸の饂飩屋 東京都生活文化局広報広聴部広聴管理課
・現代語訳 蕎麦全書伝 日新舎友蕎子著 新島繁校注 藤村和夫訳解 ハート出版

「天ぷらつきの賄い蕎麦」とっても美味しかったです。そして、「黒松のどら焼き」、「北海道のバームクーヘン」
も大変おいしくいただきました。お得感いっぱいでした。

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