半年前に日本橋そばの会の会長を辞し、自分ではけじめと思い会長日記の掲載を止めました。知人に「もう書かないのですか」なんて言われ、少し嬉しく、少し物足りない日々の中、やさしいHP担当は「会長日記」から「そばだより」に項目を変え「いつでもどうぞ」とさり気なく用意をしてくれていました。
それでも暇かと思えばそうでもなく全麺協の海外視察の担当を任され、何と今年は8月、10月と2回もモンゴルへ行き、そばの普及活動をしてきました。8月は打合せに、10月はそば祭りの開催でした。モンゴルは内陸特有の気候条件の厳しい国ですが、豊かな自然と地下資源に恵まれ、若い力でこれから発展をしていく勢いのある国だと感じました。
そのモンゴルで、そば祭り開催に当たり、私は宣伝のためモンゴルUBS放送局のテレビに出演しました。8月の打合せでそんな話はぽつぽつ出ていましたが、10月ウランバートルに着いてから急に話が具体的になり、2時間番組でそば打ち体験の講師とか、そば打ちのデモをするとかの話が出てきたので、外国のテレビだから誰も見ていないだろうと覚悟を決めて、「何でもやりますよ」と答えました。
さて決まったのは朝8時20分からの生放送トーク番組。さあ、困った、着ていく服がない、何しろトランクの中はそば打ちの道具や装束だけで、よそ行きの服は持ってきませんでした。「そば打ちの装束で良いですか?」と聞くと「OK!」と、これは前日の夜の話、ぶっつけ本番の予感がしました。
翌朝ホテルフロント待ち合わせは7時半、緊張しながら朝を迎え、時間通りに車に乗り込み、放送局へ向かいました。放送局はすぐ近くと勝手に思いこんだのですが結構遠く、道は悪く、車の揺れできれいに打って生舟に入れた生そばは舟の中で哀れな乱れた列になってしまいました。

列が乱れたそば

スタジオに入っても打合せはほとんどなく、出演者は司会者、今回のそば祭りを主催する会社MADグループのセンゲ社長、通訳のセレンゲさん、そして私と4人です。急いでテーブルに玄そば、むき身、そば粉、生そばを並べ、脇にそば殻、そば殻枕も置きました。簡単な自己紹介で直ぐに番組がスタート、司会者は当然ながらカメラに向かって何かしゃべりだしました。もちろん私は何を言っているか全然分かりません。そして私に向かい何か質問をし始めました。私は分かったふりをして頷きニコニコ、セレンゲさんが流暢に通訳し、私は日本語で答える、これをまたモンゴル語に通訳という事を続けました。そのうち、自分が何を言ったか、言いそびれたことはないか、頭の中がグルグルしてきました。今度は司会者がセンゲ社長に質問、社長は何やら熱弁を振っておられました。私は隣で頷きニコニコ、顔がしまいにはこわばってきました。

スタジオ風景

結局思い起こすと、全麺協の紹介と今回の来訪の理由、日本のそばの歴史、そばの健康効果を話したようです。途中でテーブルの上にあるそば殻枕に気が付き、「あ!そうだ、そば殻の話をしていない、どうしよう」とニコニコしながら落ち着かず思い悩んでいました。そばは殻まで無駄がないという事を話したかったのです。その時、きれいな女性がコーヒーを一人一人にサービスし、私にそば打ち歴などを質問してきました。白のそば打ち装束、帽子まで被っているので私を巨匠とすっかり勘違いをしたようです。冷や汗をかきながら答えました。
そして今度は運ばれたたコーヒーを飲むべきか悩み、隣をそっと横目で見るとセレンゲさんは手を付けていません。「そうだ、もし飲んでむせたり、こぼしたりしたら大変、飲むのは止めよう」心の中で決めました。40分間の番組が長かったのか短かったのか緊張をしていたので未だに分かりませんが、終わって飲んだコーヒーは甘かったのを覚えています。
放送が終わりセレンゲさんにそば殻枕の事を説明しなかったと告げると「大丈夫ですよ、センゲ社長が全部話しました」と教えてくれました。私は準備不足のまま、最後まで番組の内容も分からず、聞かれたことだけ答え、その上、少し勘違いをされ、変な外国人だったと思います。でもいい経験をさせてもらいました。

スタジオ風景

翌日からの2日間のそば祭りでは宣伝の効果はあったようで、飛ぶようにそば殻枕が売れていました。また大勢の来場者の中に日本のテレビで紹介されたモンゴルに住み、ハチミツ採集の仕事をしている日本人女性が来られ、名刺交換をして、日本での再会の約束をしました。美味しいそば屋に行きたいとおっしゃっていました。モンゴル視察旅行、39人と大勢の旅行でしたが大きなトラブルもなく、まずは好評のうちに終わりました。来年はどこに行くのかな、楽しみな海外視察です。

平成29年10月30日
日本橋そばの会
横田節子

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